2015年5月10日日曜日

事故のようにポチッと押せば

制限しているのは自分

ときは今年4月。こんな話題がでたのは、知り合いの恋愛事情から。日本とアメリカでの遠距離恋愛。お互い仕事もあって、会うことはもちろんSkypeなどで話す機会も限られるようだ。カップルのお二人でいらっしゃるときに、お目にかかる機会があって本当にお互いに愛してるんだなと感じさせられた。だから、今の遠距離恋愛について話しながら、ふと寂しそうに俯くその人に思わず声が出てしまった。

「でも、会おうと思えば実はいつでも会えるはずですよ」


でも、本当にそうなんだと思う。航空券を思わずクリックしてしまえば良いだけかもしれない。相手に「寂しい」と言えば良いかもしれない。寂しさに耐えられなくなったら、そういう選択をすることも大事じゃない。もちろん場合によっちゃお金はかかる。けれど、本当にそんな気がして、その方には半分無責任にそんな言葉を言ってしまった。

その人のように遠距離恋愛という物理的なケースだけじゃなく、心の距離の問題もある。
ちょっと距離を置いてみたけれど、気まずくなって連絡ができない。相手がどうしてるか気になりつつも、自分から別れを切り出したから連絡する立場じゃないと決め込む。


会いたくても会えない


こんなケース挙げていったらキリがないし、恋愛だけに限らず友達関係でもたくさんあるよなあ。航空券を取ろうかと考えても、もう1つクリックする勇気が出て来ない。相手から返信が来るだろうか、と不安に駆られ本文を打っては消す。道端で顔をみたのに、もうあの人には会わせる顔がないと自己嫌悪になる。気付いたら輝いていた仲間を目の当たりにして、自分が恥ずかしくなる。仲が良かったのにも関わらず、いつの間にか疎遠になってしまうことすらある。
人生こんなことでいっぱいだ。相手がいて初めて成立するのが人間関係だ。だから相手との物理的・心理的な距離を測るのは当然。トドメに自分のプライドや思い込みが邪魔をする。


なんだかんだには最後には自分だ。迷惑かもしれない。会わせる顔がない。恥ずかしい。こんな感情がでたとたんに自身の行動範囲は狭められる。
あの人の声が聞きたい、顔がみたい。そんな思いから電話しても良いしメールをしても良いと思う。もしかしたら相手は何とも思っていないかもしれないし、または、喜んでくれるかもしない。もちろん、嫌な顔をされることもあるかもしれない。


時は3月に戻る。ある年の離れた方を前に座っていた。その人の口から、ドキッとする質問を浴びせられた。「どうして私に連絡をわざわざくれたんですか?」直球な質問してくるなと心の中で苦笑いしつつ、そんな質問をくれたその人をもっと好きになった。
答えはシンプルだ。フィーリングが合った気がした。そして、それが勘違いじゃないか確かめたかった。

僕は不器用な人間だけど、やっぱり素直に相手との関係を楽しんで生きていきたい。自分の思った様に行動できる人でありたい。人との壁を感じたら軽やかに超えていきたい。


僕の「会おうと思えばいつでも会える」そんな無責任な発言に、その人は笑ってうなずく。「航空券をとる。やることはとてもシンプルだよね」そう言いながら。